この記事のトラックバックURL
トラックバック機能は終了しました。
トラックバック
「空海の風景」(中公文庫)「あとがき」から…
《以下引用》
…ラマ僧にとって絶対的に崇敬せねばならぬものは、その直接師である。師とは、宇宙の普遍的原理の体現者である以上、師そのものが、真言密教の用語でいえば大日如来であり、師からそれを承ける弟子として
| トトガ・ノート | 2010/09/02 12:06 AM |
「空海の風景」(中公文庫)「あとがき」から。
《以下引用》
私自身の雑駁な事情でいえば、私は空海全集を読んでいる同時期に、『坂の上の雲』という作品の下調べに熱中していた。この日本の明治期の事象をあつかった作品はどうにもならぬほどに具体的世界のもので、
| トトガ・ノート | 2010/08/26 12:00 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「エピローグ」を読みました。
当時NHKエンタープライズ21文化番組チーフ・プロデューサーの鎌倉英也さんの文章です。
《以下引用》
…司馬遼太郎が作品のテーマに掲げた「天才」の成立条件とは、一体なんだ
| トトガ・ノート | 2010/08/22 12:05 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「あとがき」を読みました。
《以下引用》
私は、雑密の世界がすきであった。雑密というのは、インドの非アリアン民族の土俗的な呪文から出たと思われるが、その異国の呪文を唱えることによって何等かの超自然的な力を得たいと願うこの島々
| トトガ・ノート | 2010/08/15 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第十章 高野山」を読みました。
当時NHK番組制作局教養番組部ディレクターの森下光泰さんの文章です。
《以下引用》
…空海が始めたこの大事業の進み方は遅々たるものであったようだ。この当時、朝廷や有力
| トトガ・ノート | 2010/08/08 12:05 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の三十」を読みました。
《以下引用》
…(空海は死の一年ほど前に)奈良の学徒にしきりに講義し、とくに東大寺真言院において法華経を講じているのである。…法華経は空海にとって専門外の顕教の――さらには最澄が天台宗の根本経典
| トトガ・ノート | 2010/08/01 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第九章 東寺」を読みました。
当時NHKエンタープライズ21文化番組チーフプロデューサーの鎌倉英也さんの文章です。
《以下引用》
…現在は東寺塔頭宝菩提院住職を務める三浦俊良氏によれば、講堂内の二十一
| トトガ・ノート | 2010/07/25 12:15 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十九」を読みました。
《以下引用》
…帰国後の空海は、なるほど多忙であった。
かれは、日本文化のもっとも重要な部分をひとりで創設したのではないかと思えるほどにさまざまなことをした。思想上の作業としては日本思想史上の
| トトガ・ノート | 2010/07/18 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第八章 空海と最澄」を読みました。
当時NHK番組制作局教養番組部ディレクターの森下光泰さんの文章です。
《以下引用》
最澄のことを考えていて、数年前に急死してしまった友人と学生時代に比叡山に登った
| トトガ・ノート | 2010/07/11 12:05 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十八」を読みました。
高校の時、芸術という授業がありまして、確か音楽と美術と書道のどれか一つを選択するものでした。私は書道を選びました。その時の講師の先生の口癖が「書は人なり」でした。
書の腕前は全然上達しません
| トトガ・ノート | 2010/07/04 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十七」を読みました。
《以下引用》
愛などとは、いかにも唐突だが、仏教徒においてはかならずしも高貴な感情とはされない。覚者の境地としては、むしろ愛から止揚されて純化した慈悲という普遍的な精神とはたらきが尊ばれ、なま
| トトガ・ノート | 2010/06/27 12:05 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十六」を読みました。
《以下引用》
密教は、宇宙の原理そのものが大日如来であるとし、その原理による億兆の自然的存在、およびその機能と運動の本性をすべて菩薩とみている。さらにはすべての自然――人間をふくめて――は、そ
| トトガ・ノート | 2010/06/20 12:05 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十五」を読みました。
この章は、泰範という僧について書いてあります。
《以下引用》
泰範は最澄から天台学を最初にまなび、弘仁元年正月、叡山の学頭になった。もっともこの間のことは、最澄が手をとって天台学を泰範に教えた
| トトガ・ノート | 2010/06/13 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十四」を読みました。
最澄という人は、飽くまでも日本国内の人という感じがします。唐に渡っても、長安に立ち寄りもせず、必要な書物の収集に専念しました。密教の伝法にしても、おそらく空海が恵果から二カ月足らずで受け継い
| トトガ・ノート | 2010/06/06 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十三」を読みました。
この章は、嵯峨天皇が空海を乙訓寺に移させたことについて詳しく書かれています。が、ここでは、奈良六宗に対する最澄の空海の立場の違いについて述べた部分だけを取り上げます。
《以下引用》
「奈良六宗
| トトガ・ノート | 2010/05/30 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十二」を読みました。
この章は、平城上皇と嵯峨天皇との対立について詳しく書かれています。
薬子という女性が関わって国が傾いたということで、玄宗皇帝と楊貴妃の話にダブらせた見方ができなくもない、とのこと。
でも、唐
| トトガ・ノート | 2010/05/23 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十一」を読みました。
空海は京の高雄山寺に移りました。この時期の前後、空海密教の教相判釈を行っていると考えられます。
《以下引用》
…仏教渡来以来、この時期までに日本にもたらされた仏教は、奈良六宗もまた最澄の天台宗
| トトガ・ノート | 2010/05/16 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の二十」を読みました。
この章は朝廷の中のドロドロとした人間関係が描かれています。
まず、空海その人について。空海の母方の血筋に玄ぼう(日へんに方)という人がいたのですが、奈良朝の頃に政界で力を持ち、藤原氏をも凌ぐほ
| トトガ・ノート | 2010/05/09 12:05 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第七章 博多」を読みました。
《以下引用》
空海は長安で多くの請来品を得たようだが、それでもまだ帰国途中に越州地方に立ち寄り、百六十ほどの経書を蒐集したようである。それは越州の役人に宛てて書いた
| トトガ・ノート | 2010/05/02 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十九」を読みました。
大宰府を立った空海ですが、和泉国(大阪府南部)の槇尾山寺に留まり、尚も京に入ることをしませんでした。ここで、もち帰った経典類を整理するとともに、おそらく恵果から託された「両部不二」の着想を論理
| トトガ・ノート | 2010/04/25 12:05 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十八」を読みました。
ひと足先に帰国して天台宗の体系を持ちかえった最澄ですが、桓武天皇や廷臣たちの関心は、ついでに越州から持ちかえった密教に集中しました。空海が出発したころの無関心さとは一変していました。玄宗皇帝が
| トトガ・ノート | 2010/04/18 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第六章 長安」を読みました。
《以下引用》
青龍寺の縁起は、隋の時代、六世紀後半にさかのぼる。当初は霊感寺といった。その後、寺名を変え、青龍寺となったのは唐代(711年)のことである。それからおよそ
| トトガ・ノート | 2010/04/11 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十七」を読みました。
空海の長安滞在中に、日本国から使者が来ました。遣唐使ではなく、単なる使者。この人たちと空海は帰国することになります。留学生としては20年くらいは滞在することになっていましたから、二年にも満たない
| トトガ・ノート | 2010/04/04 12:05 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「下巻の十六」を読みました。
《以下引用》
…インドにおいては、その後の人類が持ったほとんどの思想が、空海のこの当時までに出そろってしまっているが、それらの思想は、当然、言語に拠った。厳密に整理され、きびしく法則化されてきた
| トトガ・ノート | 2010/03/28 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十五」を読みました。
《以下引用》
…密教的成仏たるや、他の仏教体系なら人間が成仏するなど気が遠くなるほどに可能性が小さいにもかかわらず、密教にあってはそのまま“即身”の姿で成仏できる。つまり仏教一般の通念からいえば
| トトガ・ノート | 2010/03/21 12:05 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十四」を読みました。
《以下引用》…
六朝は貴族政治であるため門閥を重んじたが、唐朝は思想として普遍性を尚び、皇帝の補佐をする人材はひろく天下にもとめ、試験でもって登用し、人種を問わなかった。唐の皇帝の原理には、皇帝
| トトガ・ノート | 2010/03/14 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十三」を読みました。
年が明けると、空海のような長期滞在予定者以外の人々は早々に帰国しました。最澄も帰りました。三十年前に唐にやってきた永忠という僧も、このとき帰国しています。この人と入れ替わりに、空海が西明寺に滞
| トトガ・ノート | 2010/03/07 12:05 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十二」を読みました。
長安に向かって、大変な旅路でした。悪路をスプリングの無い馬車を飛ばして進みます。しかも、「星ニ発シ、星ニ宿ス」ということなので、ほとんど休憩の無い強行軍。衛生上の問題もあって、赤痢に罹る人もい
| トトガ・ノート | 2010/02/28 12:09 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第五章 渡海」を読みました。
日本から唐までは航路にしておよそ700キロ。最短で10日、漂流した空海たちは34日かかったそうです。
季節風も潮流も逆という、出帆には最も不適な時期をなぜか選び、舵
| トトガ・ノート | 2010/02/21 12:11 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十一」を読みました。
遣唐使船は、目的地からかなりずれたところに漂着します。占いで進路を決めていたのだから、当然ではありますが…。
密入国者として捉えられ、倭国から来たと言っても信用されず、万事休すかと思われたとこ
| トトガ・ノート | 2010/02/14 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の十」を読みました。
当時の遣唐使船は、羅針盤のような物は一切なく、占いで進路を決めていたというのですから、ゾッとします。
《以下引用》…
倭人どもがこの中国式天文学のばかばかしさ気づくのは、このあと時間を経ねばならな
| トトガ・ノート | 2010/02/07 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の九」を読みました。
《以下引用》…
空海がやったことは国家がやるべき事業でありながら、空海個人の負担によっておこなわれた。最澄の場合、天台教学を移入することは国家が公認している。その経費は国家もしくはそれに準ずる存在
| トトガ・ノート | 2010/01/31 12:15 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の八」を読みました。
空海は、遣唐使という形で、7〜9年の空白の中から、突如現れます。
《以下引用》…
かれが正規に得度をして官僧になるのは、遣唐使船に乗る前年である。このころになってようやく僧になる自信を得たかとおも
| トトガ・ノート | 2010/01/24 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の七」を読みました。
最澄について書かれています。
《以下引用》…
最澄の生涯をみて、極端な言い方がゆるされるなら、かれは教団の形成というもっとも世俗的なしごとをしたわりには――もっともその完成となると、弟子やさらに
| トトガ・ノート | 2010/01/17 12:05 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第四章 室戸岬」を読みました。
空海が修行した洞窟、神明窟(修行の場)・御厨人窟(住処)の近くにあるという、お遍路宿のおばさんが語った話が印象的でした。
《以下引用》
…「円海さんやったかね。その
| トトガ・ノート | 2010/01/10 12:14 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の六」を読みました。
まずは華厳経についての記述。私が探し求めている「古き良き日本」の根源、武士道なのか仏教なのかと彷徨っていましたが、華厳経の中に見つかりそうな気配がします。
《以下引用》
…中国および日本の思想にこ
| トトガ・ノート | 2010/01/03 12:07 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の五」を読みました。
この章はインド孔雀で始まります。孔雀は毒蛇や毒蜘蛛も容赦なく食べてしまうそうで、この解毒作用にドラビダ族(非アーリア人の一種族)の人々は驚き、自分たちもそうなりたいと思った。そのために孔雀の咒を
| トトガ・ノート | 2009/12/27 12:07 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の四」を読みました。
《以下引用》
…中国文明は宇宙の真実や生命の深秘についてはまるで痴呆であり、無関心であった。たとえば中国文明の重要な部分をなすものが史伝であるとすれば、史伝はあくまでも事実を尊ぶ。誰が、いつ、どこ
| トトガ・ノート | 2009/12/20 12:06 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第三章 奈良」を読みました。
《以下引用》
…男山の南麓、交野は788年(延歴7年)に桓武が中国の皇帝を真似て、天壇を築き、生贄の牛をささげた地である。のちに坂上田村麻呂が連れ帰った蝦夷の将、アテル
| トトガ・ノート | 2009/12/13 12:11 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の三」を読みました。
今回はアダルトなところから。
《以下引用》
…空海のような地方豪族の子弟の場合は、色を鬻ぐ家の軒をくぐらざるをえないが、宇宙の神秘や人間の生理と精神と生命の不可知なものについてずぬけて好奇心の旺盛
| トトガ・ノート | 2009/12/06 12:10 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の二」を読みました。
来年は平城遷都1300年だそうですが、実際に都が置かれたのは74年間。1300という数字と比べると見劣りがします。でも、ポンポンとお家を建て替えるが如く都を移っていくところに、当時の朝廷の権力の強さを
| トトガ・ノート | 2009/11/29 12:12 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第二章 讃岐」を読みました。
NHKで『坂の上の雲』がドラマ化されましたが、夫人の話によると「空海を考えていた頃と、『坂の上の雲』の執筆とは重なっていたんじゃないかしら。でもね、書こうと思ったこと
| トトガ・ノート | 2009/11/22 12:07 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「上巻の一」を読みました。
《以下引用》
…人間も犬もいま吹いている風も自然の一表現という点では寸分かわらないということをひとびとが知ったのは大乗仏教によってであったが、空海はさらにぬけ出し、密教という非釈迦的な世界を確立し
| トトガ・ノート | 2009/11/15 12:07 AM |
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「第一章 なぜ、今、空海なのか」を読みました。
チーフプロデューサーの鎌倉さんの文章。「なぜ、今、空海なのか」という、番組のメインテーマが決まらなくて悩んだことが述懐されてます。
そもそも、番組を
| トトガ・ノート | 2009/11/08 12:05 AM |
旅行好きの方
「飛行機と船で旅行してきました!」という話ではありません…あしからず。
「空海の風景」(中公文庫)
「『空海の風景』を旅する」の「プロローグ 『空海の風景』への旅はこうして始まった」を読みました。
考えてみると、私は司馬遼太郎の本を一冊通
| トトガ・ノート | 2009/11/01 12:06 AM |